後の天下人豊臣秀吉が、織田信長に仕えていたときに「猿」と呼ばれていたのは、いまや定説どころか事実であると言ってよいほど浸透している。戦国時代はドラマなどで再現され、信長は秀吉を猿と呼んでいることが多い。
信長が普段から猿と呼んでいたかどうかはともかく、秀吉の正室ねね(おね、高台院)に送った書状では、はげねずみという呼び方もされている。ただし、ねねは信長と親交が深かったらしく、いわゆるジョークとしてはげねずみと書いても、三者の間では許される関係であったのだろう。ましてや秀吉にしたら許す許さない以前に絶対的な主君なのだ。はげねずみについては、この書状以外に確認はされていない。
もっとも、秀吉を猿と呼んでいたのは信長だけではないようで、恐らく本人に向かって猿と呼ぶ人は少なくても、陰ではそのように呼ばれていたことは確からしい。残されている秀吉の肖像画などを見ると、猿でもはげねずみでも一理あるという風貌で、容姿については秀吉自身も自覚していたというのだから、秀吉の出世は反骨精神の為せる結果だったのかもしれない。