武家でありながら、執政側としても絶大な権力を持っていた平氏と、平氏によって討たれるが、一部は助命されて生き延びる源氏。権力図からすれば圧倒的に平氏有利であっても、それは戦力とは異なる。源氏を含めた平氏政権への蜂起は、1180年に始まり1185年の壇の浦の戦いまで続いて、結果的に平氏を滅ぼす結果となる。
平氏にとって致命的だったのは、近畿地方を襲う「養和の飢饉」と呼ばれる大飢饉であった。1180年の降水量が極端に少ないことから広範囲で干ばつが発生、農作物に甚大な被害を与えるばかりか、当然翌年に入っても食料の確保は困難になる。ましてや都がある京都では、人口に対して農業に従事している人は当然少なく、地方の農作物に頼っているのだから尚更だ。
京都を直撃したこの大飢饉は、京都で4万人を超える死者を出し、1180年の夏以降、急速に広がる戦火に対して、兵の士気を維持するのが非常に困難となっていく。干ばつが無くても平家は滅んだのかも知れないが、大きい要因であったのは確かだろう。